私が美容師アシスタント~スタイリストデビューするまでの紆余曲折。出戻りアシスタントも経験した、出来損ない美容師

こんばんは、美テラシーの角谷です。
私は美容師になって2年でスタイリストデビューしたものの、その後アシスタントに出戻りしてやり直す、という経歴を持っています。
指名のお客様を持てるようになったのは25歳の時だったので、かなり遅咲きした部類に入るかと。
どうしようもなかった24歳の時には、「もう死んでしまおうかな」と本格的にこの世を去る支度をしたほどです。
今回は、少し長めの自己紹介のような形で、全くもって順風満帆ではなかった私のスタイリストデビューまでの道のりをご紹介します。
先輩スタイリストから指導を放棄された、ひねくれアシスタント
20歳当初の私は、オーガニック信仰を卒業したとはいえ、最先端の美容室よりも、髪や頭皮に安全なメニューを提供する
「自然派美容室」に勤務する道を選びました。
ヘアカラーをするお客様の7割は草木染めの「ヘナ」で染めていて、弱酸性パーマで有名な「ベルジュバンス」も行っていた自由が丘美容室です。
まだ経験がない自分なりに、「最初から学ぶ技術を絞り込みすぎるのも、後々良くないのでは?」と考えました。
なので当時勤めた最初の美容室は、「自然派」と「普通のヘアカラーやパーマ」両方やっているサロンでした。
頭が硬く、技術の習得が遅かった
私は美容学校在学中の成績は良かった方なのですが、国家試験の練習に没頭しすぎた影響と元来の頑固さで、「対人用の美容技術」を習得するのが非常に遅かったです。
先輩美容師からも、技術の飲み込みが悪いことを何度も何度も指摘されました。
上手くいかないので練習が面白くなくて、それが顔や態度に出てしまうタイプだったので、途中から先輩に技術を教えてもらえなくなりました。
ということに気が付いたのは勤め始めて1年が過ぎた頃で、それまでマイペースの自主練が日課になっていたので、鈍感な私は先輩に言われるまで気づきませんでした。
先輩美容師の指導を素直に聞けなかった理由
当時の私は「尊敬できない考え方の人から教わりたくない」というかたくなな固定観念を持っていました。
そして勤務先の美容室は「外部の講習費用をお店が半分負担する代わりに、学んだことをお店でみんなに教えるように」という決まりでした。
ところが、サロンのオーナー不在でミーティングをしたとき、ある先輩美容師が
「自分が外部でお金を払って学んできた技術を、他人に教えたくない」
という意見を発したのです。
他の先輩美容師もそれに同調する姿勢で、私自身は全く同意できない考え方だったので、唖然としてしまったのを覚えています。
他人に教えるのも自分の勉強になるし、お店に勉強代を半分出してもらっていて、さすがにその考え方はないんじゃないの?
と口には出せませんでしたが、「この人たちからは、もう何も教わりたくないな…」と自分の心に壁ができた瞬間でした。
とはいえ、すぐに態度へ出てしまうのが私の悪い癖だったので、今振り返ると「教わる機会」を逸したのは、自分に原因がありました。
誰しも考え方の偏りはあるものですし、「そういう考え方もあるんだ」と知ったうえで、先輩美容師たちの美点を盗むべきだったと思います。
転職先の美容室で、いきなりスタイリストデビュー⇒1年でアシスタントに出戻る道へ
最初の勤務先美容室で「活躍する未来の自分」が描けなかったとき、プライベートで「ある有名なヘアメイクの先生」と、知り合う機会がありました。
ヘアメイクの先生から「うちに来てもっとセンスを学べ」的なことを言われ、自然派美容に偏った仕事へ疑問を感じていた私は、すぐ転職を決断。
ところが、当のヘアメイクの先生は「フィーリング100%の仕事」をする人で、他人が再現できないタイプの仕事をしている人でした。
スタイリストデビューするも、失敗の毎日
簡単なカットの確認テストを受けただけで即日スタイリストデビューが決まり、その時は泣くほどうれしかったです。
とはいえ、今振り返るとメチャクチャな基準だったと思います。
当然美容師の仕事は失敗だらけで、長さを切りすぎてお客様から怒鳴られたこともありました。
(お客様にケガをさせなかっただけ、運が良いと思います)
それに店長(=ヘアメイクの先生の弟さん)と自分しかサロンに居ない環境で、
無口な店長だったので「ヒマな時間の沈黙」が息苦しかったです。
結局、不安が膨張しすぎてスタイリストを続けていく自信が持てず、1年勤めて自ら退職する道を選びました。
初の大型美容室に勤めるも、何もできない自分を思い知る
都内の駒込にある大型サロンに出戻りアシスタントとして勤め始めたものの、個人店と求められる仕事が全く違うので、毎日怒鳴られまくっていました。
個人美容室に勤めていた時は、お客様へ細かな気遣いができることや、お客様を退屈させない「時間つなぎ」を求められるシーンが多かったように思います。
大型美容室チェーン店で常に求められていたのは、徹底的に「早い仕事」をすることでした。
一人のスタイリストが、多い時には一度に6人以上もお客様を掛け持ちしていたので、早く回転させなければお客様が捌けなくなってしまうからです。
それにスタイリストは給料が歩合制だったなので、仕事の質にも妥協できません。
早くて質の高い仕事に加えて、お客様との積極的な会話も求められるのが非常に苦しかったです。
黙ってサロンワークをしていると、先輩に後ろから小声で「話せよ」と促されるので、ますますパニクって喋れない、という悪循環に陥っていたと思います。
お客様との会話そのものが苦痛で、「もう美容師を辞めて、誰とも話さない仕事に転職したい」と考えていたのも、この時期です。
それに、店内の同じ技術試験に連続で4回も落ちまくっていたので、「これ以上美容師を続けるのは無理かもしれない…」と挫折しかけていました。
この世を去る支度を本気で検討して、踏みとどまれた理由
来る日も来る日も先輩美容師に怒鳴られ、スキルもお金も時間もない自分があまりにみじめで、24歳の時に本気でこの世から決別しようと考えました。
美容師のことしか学んでこなかったうえに、これ以上アシスタントを続けるのに精神的な限界を感じて、行く先を悲観したからです。
自己否定の繰り返し「ビラ配り」で、空虚に支配される
毎日長時間の「ビラ配り」を実施する美容室でもあったのですが、オマケのない単なるリーフレットなので、基本は受け取ってもらえません。
それにビラ配りを1時間半くらい続けていると、自己否定感で心が空っぽになって、心理的な限界が訪れます。
(みんな適度にサボっていたようですが、くそ真面目にビラ配りしてしまったので、動員の成績だけはダントツで良かったです)
自分に原因があるとはいえ、「仕事ができない」×「自己否定感のダメ押し」は、もともと自信を失っていた私にはキツイものがありました。
死ぬ準備をする気力があるなら、なんでもできると考え直せた
本気でこの世を去ろうと考えたとき、私が実際に感じたのは「どうせ死んでしまうのであれば、きれいにこの世を去りたい」という欲求です。
現実にやることベースで終い支度を考えると、所持品を全部処分して、発見が遅くなっても悲惨な状態にならないために断食して…
と「やることリスト」を具体的に考えた段階で、クリーンに人生の幕を閉じる準備が大変であることに気が付きました。
「こんなにめんどくさいことを全部やるモチベーションが残っているなら、まだ自分にやれることがありそうだ」と考えなおして、開き直れたのです。
その後、先輩美容師から納得いかない理由で責められたときに初めて反発心を持ち、もう辞めようと思って即日バックレ辞めしました。
(自分の「死」と本気で向き合った直後の自分にとって、叱咤された内容は先輩美容師のエゴとしか思えず、もうどうでもよかったです)
ハッタリが現実に。派遣美容師でスタイリストへ転身⇒ぶっつけ本番
当時の月収が20万円ぐらいしかなかったので当然貯蓄もなく、サロンを辞めたからと言ってプータローになるわけにはいきません。
もうこれ以上美容師アシスタントを続けるモチベーションは湧きませんが、実績のない状態からスタイリストで雇ってもらうのは難しいです。
ダメ元で派遣美容師のスタイリスト試験に挑戦してみたところ、合格してしましました。
なんだかんだでウィッグ(マネキン)を使ったカット練習は数をこなしていましたし、未熟な技術だったとはいえスタイリスト経験もあったのが功を奏したようです。
毎回違う美容室へ派遣される仕事スタイル
派遣美容師を開始した当初は、「次はいったいどんな美容院でカットするんだろう、ボロが出てしまわないかな」と毎日胃に穴が空きそうな心境でした。
正直なところ失敗も多々あったと思いますが、10店舗ぐらいの美容室を派遣で渡り歩くころには、どこの美容室でも基本の流れは同じなんだと理解できました。
派遣美容師をやめて、長く働ける美容室を探そうと思ったきっかけ
派遣スタイリストでお客様の場数をこなしている間に、練習だけでは繋がらなかったカット・カラー・パーマの理解が深まっていくのを実感しました。
「とりあえず形にして、お客様をお帰しできる頭に仕上げる」ということを繰り返した結果論です。
派遣美容師の勤務時間は労働基準法に沿っていたので、今までのブラックな職場環境とは天と地ほどの待遇差がありました。
月収も23万円~25万円もらっていたので、しばらくは派遣美容師を続けたいという意向でした。
派遣美容師を辞めるきっかけになったのは「感謝のお電話」
荻窪の同じ美容室で1か月ほど継続的に派遣美容師として勤務したとき、私が施術したカットカラーを気に入ってくださったお客様から、お電話をいただきました。
電話を受ける前は「自分、なにかヤバい失敗やらかしたのかな」と不安におびえたのですが、「次回もぜひお願いしたい」という感謝のお電話でした。
ですが当時の私は、派遣美容師なのでお客様とは一期一会のご縁が基本。お互いに無念です。
それに加えて、派遣美容師のスタイリスト登録試験の際、自分ともう一人の合格者だった36歳の男性美容師から、
「早くマトモな勤め先を見つけた方がいいよ、ホントに」と切実なアドバイスを受けた出来事も思い出して、働き方を見直すことに決めました。
苦渋の決断。収入の安定を優先した勤務先選びで、本格的にスタイリストデビュー
派遣美容師を続けながら、長く働けそうな美容室を探し始めました。
以前勤めた大型美容室は、1時間以上かけて電車通勤していて、通勤時間でエネルギーを奪われてしまうのが悩みでした。
自由が丘⇒三軒茶屋⇒駒込と勤務エリアを変えてきた結果、エリアのブランド力は自分にとってどうでもよかったです。
大型美容室の激務を自分が30代になって続けられるとは到底思えませんでしたし、当時は最低限の生活レベルが保証された働き方を求めていました。
好待遇の美容室を見つけるも、葛藤
妥協せずに探せば条件に見合うサロンは見つかるもので、当時の住まい(板橋区高島平)から15分ぐらいの場所で、
「固定給25万円+明確な基準の歩合制」という好待遇のサロンを見つけました。
お試し入店7日間を経験してみて、気になったのはスタッフ全員が喫煙者で、お客様も喫煙可の美容室であったことです。
私はもともとタバコが嫌いなので、お店のどこにいてもタバコの臭いが漂っているのに強く抵抗感を感じました。
しかもお試し入店7日目最後の晩に「プレ歓迎会」が催され、1畳半ほどの個室居酒屋で、6人に喫煙されたのは拷問のような時間でした。
「タバコは苦手&吸えないって言ってるのに、嫌がらせ?」と思ったぐらいです。
(お店側にそのつもりは、なかったと思われます)
割り切ったことで、美容師を続けられた
期限ギリギリまで「タバコ問題」で悩みましたが、生活の安定を取って割り切りました。
結果論として、タバコの煙にいぶされる毎日だということを除けば、一人ひとりのスタッフに自立心があって働きやすかったです。
顧客を連れてこれない私にとって、指名客が居ない時期に安定収入が得られたのも助かりました。
当時の私はもう25歳。もしもこの時に指名客を獲得できていなかったら、美容師を続けるモチベーションが保てなかったかもしれません。
当時からのお客様が今も通ってくださっているので、勤務条件を割り切ったことと、覚悟を決めたことが今に繋がっていると思います。
まとめ
お読みいただければわかる通り、私は有名店に勤務したという実績もなく、派遣美容師という裏道からスタイリストへ成りあがった美容師です。
仕事の覚えも悪かったので、美容師としてあまり器用な部類ではないと思います。
大型店で求められる効率性も経験したうえで、「心が荒む。これなら美容師をしなくてもいい」と考えて、マンツーマン接客という業態を選んだ人です。
大型店での勤務を経験したことで、複雑な人間関係やオペレーションスピードの重要性も身についたので、貴重な経験だったと思います。
集客のビラ配りも大変ではありましたが、ビラを受け取った人の45人中1人が来店するという結果は出せたので、
これも小さな実績の一つかもしれません。
少なくとも、こういった過去がなければ今の自分も存在しなかったので、
全くキラキラできなかったどんくさいアシスタント時代も、今となっては「オリジナルな経験値」という視点で、受容しても良いと思えるようになりました。